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千葉地方裁判所 昭和57年(ワ)750号 判決

原告

森川豪

森川岳彦

森川俊彦

森川美雪

右両名法定代理人親権者父

森川豪

原告

西木為雄

西木よし

原告ら訴訟代理人弁護士

清水徹

被告

伊予亨

右訴訟代理人弁護士

糸永豊

北村明

主文

一  被告は、原告森川豪に対し金九七五万九九三九円及び内金九〇万円に対する昭和五五年四月二四日から、内金八八五万九九三九円に対する同五七年八月二八日から各完済まで年五分の割合による金員、同森川岳彦、同森川俊彦、同森川美雪に対し各金六八三万六六二五円及び内各金九〇万円に対する同五五年四月二四日から、内金五九三万六六二五円に対する同五七年八月二八日から各完済まで年五分の割合による金員、同西木為雄、同西木よしに対し各金四九万五〇〇〇円及び内各金四五万円に対する同五五年四月二四日から、内各金四万五〇〇〇円に対する同五七年八月二八日から各完済まで年五分の割合による金員の支払をそれぞれせよ。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その二を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告森川豪に対し金一八六八万円、同森川岳彦、同森川俊彦、同森川美雪に対し各金一一七二万円、同西木為雄、同西木よしに対し各金四四〇万円及び右各金員に対する昭和五五年四月二四日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告森川豪(以下「原告豪」という)は、訴外故森川文子(以下「文子」という)の夫、原告森川岳彦、同森川俊彦、同森川美雪(以下それぞれ「原告岳彦」、「原告俊彦」、「原告美雪」という」はいずれも文子の子、同西木為雄、同西木よし(以下それぞれ「原告為雄」、「原告よし」という」は文子の両親である。

(二) 被告は、肩書地において産科、婦人科、内科、小児科を診療科目として医院を開設している医師である。

2  診療契約の成立

文子は、昭和五二年五月頃、左乳房にしこりを感じ、乳房の疾患を疑い、右疾患の治療のため被告医院を訪れて被告の診療を受け、以後同五四年三月三一日まで継続して右疾患の診療を受けたので、両者間には右期間中、左乳房疾患の診療契約が成立していた(以下「本件診療契約」という)。

3  文子の死亡

文子は、昭和五四年四月二三日、千葉大学付属病院(以下「千葉大」という)で受診し、入院・検査の結果、乳癌と診断され、同年五月二三日から東京都立駒込病院(以下「駒込病院」という)に入院し、同月三一日左乳房摘除手術を受け、以後二回の入院・その間の通院中、制癌剤の投与等の治療を受けたが、同五五年四月二三日乳癌肝転移による呼吸不全により死亡した。

4  被告の責任

(一) 被告は、昭和五二年七月二五日に文子を診察した際(以下「初診時」という)、左乳房疾患につき乳癌の疑いをもち、乳癌と鑑別し、また自らは、触診以外のマンモグラフィー、乳房造影、超音波診、組織診等の鑑別手段を持たなかつたのであるから、然るべき外科病院に於いて精密検査させて鑑別した上で治療を行うべきであつたところ、被告はかかる手段をとらず乳腺炎と誤診して治療し、さらに乳腺炎は抗生剤により一週間程度で治癒する疾患であるから、抗生剤による治療が奏効しなければ、遅くとも同年八月六日の治療日までには誤診に気づくべきであつたにもかかわらず、昭和五四年三月に至るまで乳癌の疑いをもたずに一貫して乳腺炎と診断し、別紙投薬一覧表のとおりの投薬治療を行つたことにより、この間文子が他の病院で乳癌の鑑別のための検査を受けて乳癌に対する適切な治療を受ける機会を失わせた。

(二) プリモジアンを乳癌患者に使用することは禁忌とされているにもかかわらず、被告は文子の乳房疾患を乳腺炎と軽信していたことから、昭和五三年九月二七日、同年一〇月四日、同月二〇日の三回にわたつて、各五日分、合計九〇錠のプリモジアンを漫然と文子に投与し服用させた結果、徐々に悪化していた文子の病状を急激に進行させた。

(三) 被告の右各義務違反は本件診療契約上の債務の不履行であり、同時に不法行為における過失というべきである。

5  因果関係

(一) 初診時の文子の左乳房のしこりは乳癌の初期であつたと考えられるが、その病期は腫瘤が直径一ないし二センチメートル程度で、腋下リンパ節転移も認められないT1N0M0(ステージⅠ)の状態にあり、しかも文子は生来頑健であつたから、この当時に適切な乳癌の治療を受けていれば一〇〇パーセント治癒していた。

(二) しかし被告が乳癌を乳腺炎と誤診し、昭和五四年三月三一日まで専門医に転医させなかつたこと及び乳癌には禁忌とされているプリモジアンを投与したことにより、昭和五四年四月二四日の千葉大での初診時には、文子の乳房の硬結は九センチメートル円大で、左腋窩リンパ節には大豆大の固定した腫瘤があり、遠隔転移がある状態で乳癌の病期はステージⅣに入つていて手遅れであり、文子は、同年五月三一日に駒込病院で左乳房摘除手術を受け、その後制癌剤の投与を受けたが効を奏せず、昭和五五年四月二三日、同病院で乳癌肝転移による呼吸不全で死亡した。

(三) 従つて被告の前記各義務違反行為と文子の死との間には因果関係がある。

6  損害

(一) 文子の損害

(1) 逸失利益 金二三九七万円

文子は、昭和一二年七月二九日生(死亡当時四二歳)の主婦であつたから、賃金センサスによる四二歳の女性の平均給与額の半分を損益相殺し、就労可能年数を二五年として逸失利益を算出すると右の金額となる。

(2) 慰藉料 金一五〇〇万円

文子は、初診時以来被告に絶対な信頼を置いてその指示通りの薬剤服用を続けたためにかえつて自らの寿命を大幅に縮める結果となつたものであり、夫と幼い三人の子供を後に残して死亡することにより被つた精神的苦痛は絶大である。

(3) 前記のとおり原告豪は、文子の夫であり、同岳彦、同俊彦、同美雪はいずれも文子の子であるから、文子死亡当時の法定相続分に従い、原告豪は、前記文子の(1)及び(2)の損害額合計金三八九七万円の三分の一である金一二九九万円、同岳彦、同俊彦、同美雪は、それぞれの九分の二である金八六六万円をそれぞれ相続した。

(二) 原告ら固有の慰藉料

(1) 原告豪 金四〇〇万円

(2) 原告岳彦、同俊彦、同美雪 各金二〇〇万円

(3) 原告為雄、同よし 各金四〇〇万円

文子は、原告為雄、同よしにとつて頼りになる長女であり、文子が結婚した後も、原告為雄と同よしの家が千葉県鎌ケ谷市で文子らの家が同県柏市、後に千葉市千城台と比較的近いこともあつて、親子の交流が頻繁に行われていた。原告為雄は七〇歳、同よしは七五歳で文子に先立たれた両名の精神的苦痛は大き〈い。〉

(三) 弁護士費用

被告が本件の解決を医師会にまかせたとして誠意を示さなかつたため、原告らは本訴の提起を原告ら代理人に委任し、請求金額の各一割である、原告豪につき金一六九万円、同岳彦、同俊彦、同美雪につきそれぞれ金一〇六万円、同為雄、同よしにつき各四〇万円を弁護士費用及び報酬として支払うことを約した。

よつて原告らは被告に対し、原告豪は、債務不履行責任に基づき文子の損害賠償金の原告豪相続分金一二九九万円と不法行為責任に基づき固有の慰藉料金四〇〇万円と弁護士費用金一六九万円、同岳彦、同俊彦、同美雪は債務不履行責任に基づき文子の損害賠償金のそれぞれの相続分各金八六六万円と、不法行為責任に基づき固有の慰藉料各金二〇〇万円と弁護士費用各金一〇六万円、同為雄、同よしは不法行為に基づき固有の慰藉料各金四〇〇万円と弁護士費用各金四〇万円及び右各金員に対する文子死亡の翌日である昭和五五年四月二四日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の各支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)の事実は認める。同1(二)の事実は被告の標榜する診療科目が産婦人科であつて産科、婦人科と区別していない点を除いて認める。

2  同2の事実は認める。

3  同3の事実は知らない。

4  同4(一)のうち、乳房疾患につき乳癌の疑いを持ち乳癌と鑑別すべきであること、鑑別手段がなければ外科病院で鑑別すべきであるとの点は医学上の意見につき認否できない。その余はすべて認める。同4(二)の事実のうち、徐々に悪化していた文子の病状を急激に進行させたことは否認し、その余は認める。

5  同5(一)は争う。同5(二)のうち、病期に関する原告らの主張は、医学上の意見であり認否できない。その余の事実は認める。同5(三)につき、被告が診断を誤つたこと、その結果、文子が乳癌で死亡したこと(因果関係)は認める。

6  同6は知らない。

三  抗弁

1  被告は、昭和五四年三月まで乳癌の疑いを持たなかつたが、同五三年一月三〇日と同年三月三日の二回にわたり、念のため千葉大で精密検査を受けるように文子に指示したが同人の強い拒絶にあつてこれを断念したのであるから、被告としては診療上の注意義務を尽しており、帰責事由はない。

2  文子には左記の過失があるので損害額算定上十分に斟酌されるべきである。

(一) 前記のとおり、被告が昭和五三年一月三〇日と同年三月三日に千葉大で精密検査の受診を勧めたのに、文子はこれを拒絶し、自ら乳癌の発見を遅らせた。

(二) 前記のとおり文子は、昭和五四年四月二七日に千葉大で病理組織学的検査によつて乳癌と確定診断されたが、試験切除後の乳腺に対しては遅くとも一、二週間以内に根治的乳房切断手術を必要とするところ、文子は同年五月一日に同病院を退院し、同月二三日に駒込病院に転院して同月三一日に同病院で左乳房摘除手術を受けたことにより、自ら手術のタイミングを遅らせて死亡率を高めた。

3  初診時の文子の腫瘤の大きさは直径二センチメートル以下であつたから、この時点での乳癌の正診率は三五・一パーセントで、疑診を含めても八三・八パーセントに過ぎない。

仮に初診時に文子の乳房疾患を乳癌であると確定診断することができ、適切な乳癌の治療がなされていたとしても、髄様腺管癌患者の五年生存率は六七・四パーセントで、一〇年生存率は五七・六パーセントであるから、被告の誤診がなかつたとしても、文子が死亡した可能性はそれぞれ三二・六パーセント、四二・四パーセントであるから、その分を原告ら主張の損害額から差し引くべきである。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実は否認する。

2  同2(一)の事実に対する認否は前項と同じである。

同2(二)は争う。病理組織学的検査後根治手術までの日数が延びる程生存率が不良となるかは疑問であり、さらに文子が千葉大でなされたのは穿刺吸引生検であつて、これは細い針で乳房の比較的表層から微少組織を取るものなので、被告が主張するように転移を誘発する危険性はない。

3  同3は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1(一)の事実は当事者間に争いがなく、同1(二)の事実のうち、産科、婦人科を除く診療科目については当事者間に争いがなく、被告本人尋問の結果(後記措信し難い部分を除く)によれば、被告は、診療科目として産科と婦人科を区別せず、産婦人科と標榜していることが認められる。

二被告と文子の間に本件診療契約が成立していたことは〈証拠〉によれば、請求原因3の事実が認められ〈る。〉

三被告の責任

1  被告が初診時において文子の乳房疾患を乳腺炎と誤診し、かつ遅くとも昭和五二年八月六日の診療日には右誤診に気がつくべきであつたのに同五四年三月まで乳癌の疑いを持たず、一貫して乳腺炎と診断してその治療を行なつたことは当事者間に争いがない。

〈証拠〉によれば、文子は初診時以来、左乳房の痛みを訴え、左乳房が全体的に張つており、昭和五二年八月一八日の診察時には、触知しうるものがあつたことが認められるところ、〈証拠〉、鑑定人藤本茂の鑑定の結果(以下「鑑定結果」という)によれば、乳癌の臨床的特徴として腫瘤の触知、疼痛等があり、疼痛は決して無視すべきではなく、また初期・早期段階では、超音波診断法、生検組織診断によつて鑑別がなされること、超音波診断と触診の繰り返しと並行して抗エストローゲン剤を内服させることによつて「乳腺症」と「乳癌」の鑑別診断は比較的容易であることが認められる。そして被告が右の様な鑑別診断設備を有していなかつたことは当事者間に争いがないから、遅くとも乳腺炎としての治療が効を奏さなかつた時点で、被告には乳癌の疑いを持ちその鑑別を行うか、文子に外科医若しくは鑑別設備を有する専門医の診察を受けるよう勧告する義務があることが認められる。

それにもかかわらず、被告が実川外科に文子を紹介したのは、初診時から約二〇か月後の昭和五四年三月三一日であることは被告の自認するところであり、被告が同五三年一月三〇日と同年三月三日の二回にわたつて文子に千葉大での精密検査を勧めたとする抗弁1の主張に沿う被告本人の供述部分(第一回)が存するのみである。しかし、被告は、当裁判所の再三の呼出にもかかわらず第二回以降の被告本人尋問期間にうつ病を理由に出頭せず、原告ら訴訟代理人の尋問にはほとんど応じていないこと及び右被告本人尋問において、被告訴訟代理人は、乙第一ないし第四号証の診療録を示して尋問しているが、右診療録は本件の証拠保全手続(当庁昭和五五年(モ)第八〇六号)において呈示された甲第二〇号証の診療録とは別のものであつて被告が右手続以降に作成した疑いが強く、以上の事情に照らすと、被告本人の右供述部分は信用し難く、他に抗弁1の事実を認めるに足りる証拠はない。従つて、被告の前記注意義務違反は明らかである。

2  被告が乳癌には禁忌とされているプリモジアンを請求原因4(一)、(二)のとおり文子に投与したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、エストローゲンを成分とするホルモン剤であるプリモジアンの投与は、エストローゲン依存性腫瘍である乳癌の進行を促進することが認められる。

以上によれば被告は乳癌を乳腺炎と誤診して、乳癌の鑑別を行うか専門医の受診を勧める義務を怠つた点及びプリモジアンを投与した点で本件診療契約上の債務不履行責任を負い、また右二点につき過失があるので不法行為責任を負うというべきである。

四因果関係

昭和五二年八月六日の治療日までには乳癌を疑うに足りる症状であつたこと、請求原因5(二)のうち病期の名称を除くその余の事実は当事者間に争いがなく、さらに、被告が診断を誤つたこと、その結果、文子が乳癌で死亡したこと(因果関係)をも認めるところであるので、被告の誤診と文子の死亡の間の因果関係は明白である。

五損害

1  文子の損害

(一)  逸失利益

〈証拠〉によれば文子が昭和一二年七月二九日生で死亡当時四二歳であつたことが認められるので、稼働可能年数は二五年と認めるのが相当である。そして文子が死亡した昭和五五年度の賃金センサス第一巻第一表全国性別・学歴別・年令別平均給与表によれば、四〇ないし四四歳の女子労働者がきまつて支給される現金給与額が月一二万四一〇〇円で、年間特別給与額が三四万八〇〇〇円であるから、一年間の平均収入は一八三万七二〇〇円であり、右期間を通じて控除すべき生活費を四割とするのが相当であるから、中間利息の控除につきホフマン式年別複利式計算法を用いて死亡時における文子の逸失利益の現価額を算定すれば、左記のとおり金一七五七万五五七六円となる。

183万7200円×(1−0.4)×15.94416917=1757万5576円

(二)  慰藉料

患者としては医師に対し現代の医療水準に照らして適切かつ十分な治療を期待するのが当然であるが、右期待が被告の義務違反により裏切られ、天寿を全うすることなく死亡するに至つた場合、患者が被るであろう失望と苦痛は察するにあまりあるところであるうえ、本件においては被告の義務不履行は一点にとどまらず、しかもそれがいずれも重大な過誤であるから、これらは文子の慰藉料額算定上十分斟酌されなければならない。

右事情に加え、夫と幼い子供三人を残して死亡したことの精神的損害を考慮すれば文子固有の慰藉料は九〇〇万円と認めるのが相当である。

右文子の(一)及び(二)の損害金の合計は金二六五七万五五七六円となるところ、原告豪は文子の夫であり、同岳彦、同俊彦、同美雪はいずれも文子の子であるから、文子死亡当時の法定相続分に従つて、原告豪は三分の一(金八八五万八五二五円)、同岳彦、同俊彦、同美雪はそれぞれ九分の二(各金五九〇万五六八三円)を相続したというべきである。

2  原告らの損害

(一)  〈証拠〉によれば文子の死亡による原告豪の精神的苦痛は大きいことが認められるが、同人が前記文子の慰藉料請求権の三分の一を相続していることを考慮すれば、原告豪固有の慰藉料は金一〇〇万円が相当である。

(二)  〈証拠〉によれば、文子死亡当時それぞれ一四歳、一一歳、七歳であつた原告岳彦、同俊彦、同美雪にとつて母親の死は極めて大きな精神的苦痛であつたことが認められるが、前記のとおり文子の慰藉料請求権の九分の二をそれぞれ相続していることを考慮すれば、原告岳彦、同俊彦、同美雪固有の慰藉料は各金一〇〇万円が相当である。

(三)  〈証拠〉によれば、原告為雄、同よしと文子及び原告豪らの一家とは頻繁に交流しており、文子の死亡によつて原告為雄と同よしは大きな精神的苦痛を被つたことが認められるが、他方文子は、原告豪と結婚後独立して一家を形成し、両親と別居していたことを考慮すれば、原告為雄と同よしの慰藉料は各金五〇万円が相当である。

六過失相殺

1  抗弁2(一)については、前記責任の項において判断したとおり、これを認めることはできない。

2  抗弁2(二)につき判断するに、文子が昭和五四年四月二七日に千葉大で病理組織学的診断を受けて乳癌と確定診断されたにもかかわらず、同病院を同年五月一日に退院して駒込病院に転院し、同月三一日に同病院で左乳房摘出手術を受けたことの予後に及ぼす影響が問題となるが、試験切除から根治的な手術までの日数と予後との相関関係は被告が挙げる乙第七号証の表六からも明確ではなく、しかも前掲乙第五号証の八によれば、文子が千葉大で受けた検査は穿刺吸引生検(ASPアスピレーション)であることが認められ、穿刺吸引生検は癌の場合も血行性あるいはリンパ性転移を誘発しないので、この検査の約一か月後に根治的外科手術を受けたとしても、そのことが予後に影響を及ぼすとは認められず、その他に文子の死亡率を高めるような事情はない。

従つて抗弁(二)は認めることができない。

3  寄与度

〈証拠〉によれば、昭和五二年七月当時の文子の乳房の腫瘤は直径一ないし二センチメートルで、腋下リンパ節転移がないT1N0M0(ステージⅠ)の病期にあつたと認められるが、この段階で乳癌の確定診断を下し適切な根治的外科手術を行つたとしても、①顕微鏡的な大きさで存在する個々の癌細胞をすべて取り除くことは不可能であること、②手術操作中にこれらの癌細胞を手術野に散布して転移形成を助長することも有り得ること、③手術前に既に存在している顕微鏡的な大きさの遠隔転移巣を発見することは現在では不可能なこと、以上の理由により手術後の生存率を一〇〇パーセントとすることはできないのであり、文子が一般の乳癌患者よりも予後が特に良くなる体質を持つていると認めるに足りる証拠はない。そこで昭和五二年度に手術を受けた乳癌患者の統計上の平均値である五年生存率を検討する。

鑑定結果によれば、昭和五二年度に根治的外科手術を受けたステージⅠの乳癌患者の五年生存率は、乳癌以外の病気による死亡(以下単に「他病死」という)も含めて八九ないし九二パーセントであること、髄様腺管癌の生存率は乳頭腺管癌及び硬癌をも含めた乳癌全症例の平均値にほぼ一致すること、根治的手術をした時期が後になるほど生存率は高くなることが認められる。被告が五年生存率、一〇年生存率として挙げる統計(乙第六号証表七と表九)は、髄様性管癌一般についてのものであつて病期による分類がなされていないので本件に適用するのは不適当であり、また乙第六号証、同第八号証の他の統計も資料が古く、昭和五二年当時の医療水準を示すものではないので採用できない。

従つて、他に拠るべき証拠のない本件においては前記昭和五二年度に手術を受けた乳癌患者の統計上の平均値である五年生存率を参考にし、被告に誤診がない場合においてもなお文子には初期乳癌患者として体質的に一〇パーセント程度の死亡の可能性があつたものと認められるので、これを損害の公平な分担という理念に照らし、民法七二二条を類推適用して原告らの損害のうち一〇パーセントを減ずるのが相当である。

従つて前記の損害のうち、被告において賠償すべき金額は左記のとおり、原告豪が金八八七万二六七二円、同岳彦、同俊彦、同美雪がそれぞれ各金六二一万五一一四円、同為雄、同よしが各金四五万円となる。

(885万8525円+100万円)×0.9=887万2672円(原告豪)

(590万5683円+100万円)×0.9=621万5114円(原告岳彦、同俊彦、同美雪)

50万円×0.9=45万円(原告為雄、同よし)

七弁護士費用

被告に負担させるべき弁護士費用は、原告豪につき金八八万七二六七円、同岳彦、同俊彦、同美雪につき各金六二万一五一一円、同為雄、同よしにつき各金四万五〇〇〇円が相当である。

八結論

以上の次第であつて、被告に対する、原告豪の本訴請求は、金九七五万九九三九円及び内同人固有の慰藉料金九〇万円に対する文子死亡の翌日である昭和五五年四月二四日から、内文子の損害賠償金の相続分と弁護士費用の合計額金八八五万九九三九円に対する本件訴状送達の翌日である同五七年八月二八日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があり、同岳彦、同俊彦、同美雪の本訴請求は、各金六八三万六六二五円及び同じく固有の慰藉料各金九〇万円に対する同五五年四月二四日から、その余についての合計各金五九三万六六二五円に対する同五七年八月二八日から年五分の遅延損害金を求める限度で理由があり、同為雄、同よしの本訴請求は、各金四九万五〇〇〇円及び内金四五万円に対する同五五年四月二四日から、内弁護士費用各金四万五〇〇〇円に対する同五七年八月二八日から年五分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があるからいずれもこれを認容し、その余の請求は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官荒井眞治 裁判官藤村眞知子 裁判官中山幾次郎)

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